制作年 | 18世紀 |
制作国 | ロシア |
制作者 | インタリオ: Johann Caspar |
素材 | エメラルド、ダイヤモンド、ゴールド、シルバー |
サイズ | L50mm, W33mm, H8mm |
エメラルドとダイヤモンドをセットしたペンダント。楕円形のフレームとオールドブリリアントカットのシングル・ストーン・ダイヤモンドがセットされた吊り金具からは複数のカットダウン・コレットが続き、コーナーカットされた長方形のエメラルドを取り囲む。エメラルドにインタリオで描かれているのは、エカテリーナ2世(1729-96)の左向きの横顔の姿である。月桂樹の冠を被り、肩の下まで垂れ下がる髪の房には真珠のロープが編み込まれており、衣服の襟元にはドレープが入っている。マウントの裏面は半ば閉じており、インタリオにはキリル文字でヨハン・カスパー・イエーガー(1772-1780年にサンクトペテルブルクで活躍)とサインがある。
アレクセイ・オルロフ=チェスメンスキー伯爵(1737-1808)
ドイツ出身のヨハン・カスパー・イエーガーがその名声を築き上げたのは、宮廷専属のメダル意匠家として制作した、エカテリーナ2世の栄光に満ちた統治を称えるメダル作品を通じてであった。しかし、この作品の素晴らしい肖像は、彼が才能に満ちた宝石彫刻師でもあったことを物語っている。
女帝エカテリーナがその長きにわたる支配の間に古代やルネサンス期のカメオやインタリオ作品の壮大なコレクションを作り上げたのはよく知られているが、彼女は同時に当時の芸術家も奨励していた。この目標を達成するために、エカテリーナ自身が後援者(パトロン)であったサンクトペテルブルク芸術アカデミーのメダル部門で、宝石彫刻の技術を教えるよう指名したのがイエーガーであった。彼はハードストーンだけでなく、この作品にみられるような、より硬度の高い貴重なエメラルドやサファイアなども使用して皇室の肖像を制作した(J.ケイガン、展覧会『女帝エカテリーナの宝』図録、ロンドン、2000年、100-101頁を参照)。1795年にフランス人芸術家、エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブランは、この女帝の姿を「背は高くないが頭は垂直に立ち、鷲のような鋭い目と表情は、常に意のままに命じることに慣れた様子だ。まるで世界の女王であるかのようだ」と表現しているが、イエーガーが絶妙に表現したこの彫刻のエカテリーナはまさにその通りである。
オルロフ=チェスメンスキーの所有であったことにも歴史的な意義がある。というのも、アレクセイ伯爵は、女帝のお気に入りであったグリゴリー・オルロフ伯爵の弟であったからだ。エカテリーナとグレゴリーは1761年に愛人関係を結び、1762年にはアレクセイ・ボーブリンスキーと名付けられることになる息子を産んでいる。この子は宮廷で育てられ、エカテリーナの長男、つまり将来のパーヴェル1世の異父兄弟として認められる。伯爵の位を与えられ、彼の子孫たちはロシアの名家と婚姻関係を結んでゆく。オルロフ家の権力とその影響力は1762年のクーデターから始まり、これによりピョートル3世は退位、殺害される。この後、王座に就いたのが妻のエカテリーナであった。グリゴリーよりも冷酷なアレクセイこそは1762年の陰謀の首謀者であり、その後も引き続き女帝に仕え、戦争大臣に任命されている。1770年にはロシア統一軍の指揮官としてチェシュメの戦いでトルコ艦隊を撃退し、その功績が認められてオルロフの名にチェスメという地名が追加されたのである。翌年には、コレラ蔓延で混乱に陥っていたモスクワに向かう。こうした手柄には手厚く報奨が与えられた。豪奢な宮廷の式典で、輝くダイヤモンドに周囲を飾られたエメラルドの肖像は、アレクセイ・オルロフ=チェスメンスキーが、「大帝」とまで称された稀にみる女帝から、いかに信頼を得ていたかを証明している。