制作年 | Circa 1810 – 1830 |
制作国 | ロシア(推定) |
制作者 | 未詳 |
素材 | ピンクトパーズ、ダイヤモンド、 ゴールド、シルバー |
ジュエリーの命は短く、次の世代まで残るものは少ない。それ故、このヴュルテンベルク・パリュールには希少性がある。宝石が放つ天然の美しさに加え、ティアラ、イヤリング、ネックレス、セヴィニエそしてブレスレットの光り輝くアンサンブルとしての効果は、ヴュルテンベルクの支配者に代々伝わる壮麗なる宮廷生活の様々なシーンへと我々の想像力を誘う。
18世紀全体を通してこのヴュルテンベルク家の人々は贅の限りを尽くした生活で名を馳せていた。ヴュルテンベルク王国は皇帝の支配するドイツの様々な主権国家の中では最小であったが、シュトュットガルトやルードヴィヒスベルクなどの城の規模、その壮大な雰囲気、そして礼式に則って進められる厳かな式典の数々は訪問者に強い印象を与えていた。中でも新たにフランス皇帝として戴冠したナポレオン・ボナパルトと妻のジョゼフィーヌはこれに深く感動した。1805年、公爵フリードリヒ2世の次男パウルとザクセン・ヒルトブルクハウゼンの王女との結婚式のあと、ナポレオンはジョセフィーヌに手紙を書いている。「ここには稀に見る美しい宮廷があり、新婦も非常に美しい。彼女にはジュエリーをいれた結婚祝いのバスケットを贈らねばならぬ」としている。また、同年10月に「非常に高貴で壮麗な」ルートヴィヒスベルクに到着すると、このフランス皇帝は200人もの馬に跨った護衛が持つ松明で照らされた城を目にすることになる。鐘の音が祝砲と相まって響き、その後150人の招待客とともに盛大な祝宴が催された。フリードリヒ2世の妻、イングランド王女でもあるオーガスタ・シャーロット・マチルダ自らが威厳と格式をもってナポレオンの盃を満たした。その後の彼の滞在はオペラの上演や花火の打ち上げにより盛り上がってゆく。
プレスブルクの和約によりフリードリヒ大公はフリードリヒ1世として国王の位を与えられ、ヴュルテンベルクは新たに創設されたライン同盟に加盟した。そして更なる認可の証しとして、またヴュルテンベルク王朝の血統をボナパルト家に組み込むためにも、ナポレオンはフリードリヒの娘カタリーナと自らの最も若い弟のジェロームとを結婚させる。1807年にはジェロームがウェストファーレン王であることを宣言する。J.B.ルニョーによる絵画には、その婚礼の祝いで着用された素晴らしいジュエリーが描かれている。これは、ナポレオンによる政治戦略の一部であり、壮大な富の誇示によってドイツ人の目を圧倒しようとするものであった。ナポレオンとジョゼフィーヌはカッセルのヴィルヘルムスヘーエの宮殿でジェロームの結婚式においてもジュエリーを誇示し、さらにはドレスデン、ミュンヘン、そしてシュトュットガルトでも式典を催した(2)。この政策で非常に重要な役割を担ったのが宝石であり、皇帝と皇后はそれぞれの王国を訪ねながら、最新のパリの流行を贈り物として数多く配っていった。
こうした贈答品は、パリの宝飾品こそ最高のものであるという主張を反映したものであり、革命後数年間の無政府状態で失墜してしまった贅沢品とファッションの創造の中心であったパリの地位を回復させようという目論見があった。さらには、1804年の帝政の創設に伴う共和制の廃止により、君主制を推し進める決意を固めていた。宝石が君主の権威を誇示する最適な方法であることを十分に意識したうえで、ナポレオンは、家族や親類、勝利に貢献した将軍たち、そして帝国の要人等は宮廷に上がる際には、それに相応しい盛装に身を包むべきであるとした。ナポレオンの規則は望み通りに知れ渡り、チュイルリー宮殿やサン=クルー城で開かれた様々な式典は美しく輝いていた。男性は金の刺繍が施されたユニフォームに彩られ、星形や十字等の様々な勲章からはダイヤモンドの輝きが放たれていた。女性はレースやサテンのガウンに身を包み、パリュールによって燃え立つように飾り立てられた。このようにして体制によって新たに権力の座に押し上げられた人々は、単なる成り上がり者から高貴な婦人や紳士へと変身していったのである。それだけではなく、ナポレオンの影響下では、フランスの領域を超えて君主制が再び強く確認されるようになり、ヨーロッパの王国それぞれが王族によって統率されるようになる。王族は他の家族との同盟関係を求め、その権威を豪華な宮廷生活によって宣言してゆく。その意味で宮廷生活は、戴冠式、婚礼、洗礼式そして記念祭などの、いわゆる王朝王族と関連付けられた一連の国家規模の行事によって営まれてゆくのである。政治権力としての君主制は、19世紀全体を生き延びるが、プロシア、バイエルン、ヴュルテンベルク、ザクセン、バーデン大公国、ヘッセン・カッセルなどのドイツの諸王国は1918年に起こった革命の嵐によって消滅してゆく。しかしながら、そうした王国が存続している間は、ジュエラーたちにとっての黄金時代であり、王侯貴族による公式行事はその臣民の多くに強い印象を与え感動させていた。
19世紀ドイツの政治状況を背景にして、このピンク・トパーズとダイヤモンドによるパリュールは、ヴュルテンベルクの王朝としての歴史を映す鏡のようなジュエリーであった。何世代にも渡って着用者の地位を示し、宮廷生活の栄華に貢献しながら、支配階級の伝統の一部を成してきた。とはいえ、その由来には未だ明らかにされていない点もある。それはフリードリヒ1世の子孫のロマノフ家との近い関係からみて、ロシアから得られたものであるという説である。ロシアほど、宝石が説得力のある政治的道具として理解されていた場所もない。ロシアでは宮廷の公式行事や式典、記念祭や新年の祝いなどで、王侯貴族たちは壮麗な宝石を身に着けることにより、一瞬で重要人物であると目を引くのである。それ故、フリードリヒ1世の妹ゾフィー・ドロテア(ロシア名:マリア・フョードロブナ)が後のパーヴェル1世、つまりエカテリーナ2世の息子と結婚し、後にロシア皇帝となるアレクサンドル1世 とニコライ1世や6人の娘達の母となったことには大きな意義があった。その娘たちの中には、カタリーナがおり、彼女はヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世(在位1816-1864)と結婚するのである。結婚によってカタリーナがヴュルテンベルク家へ持ち込んだ宝石には、彼女の母から贈られたトパーズがセットされた三つの装飾品が含まれていた(4)。ゾフィー・ドロテアは同時にツァーリ、ニコライ1世の娘で大公女のオリガの祖母でもあり、このオリガがヴュルテンベルク家のカール1世(在位1864-91)の妻となるが、ロマノフ家出身であるという威風を湛えていた。その後、これらの独特なピンクの宝石を使い、ナポレオン時代の影響下のデザインで創られたこのパリュールは、代々ヴュルテンベルク家に受け継がれる。ヴュルテンベルク家のヴィルヘルム2世(在位1892-1918)が1877年にヴァルデック=ピルモント家の王女マリーと結婚すると、彼女はその短い在位中にもこれを着用している。このパリュールは1882年付けの彼女の遺品目録にも記されている(5)。娘のヴィート侯妃パウリーネによって相続されたが、第二次世界大戦後になってミラノの宝石商R.クズィによって購入されている。そこからある個人収集家の手に渡ったのである。
このパリュールの起源についての鍵となる情報は独特なピンク・トパーズそのものからも得られる。アメリカ宝石学研究所およびGIAリサーチセンターの東南アジア部のディレクターを務めた英国の宝石学者であるケネス・スカラット博士の見解では、ウラル山脈南部オレンブルグ近郊のサナルカ川の砂金採掘場で発見されたものであるという。さらに、これらのトパーズは熱処理を施されておらず、その素晴らしい色彩は完全に天然のものである(6)。これらの石は帝政ロシアのロマノフ家に独占され、宝飾品としてマウントされた(7)。この鉱山はすぐに枯渇してしまったため、この産地のトパーズは非常に希少で、『宝石学』誌(1959年)のS.カヴェナゴ・ビニャーニ氏によると「非常に希少なピンク・トパーズとブリリアントカット・ダイヤモンドの王室のコレクションは(中略)非常にユニークなものであり、ミラノのR.クズィ氏が所有している。完璧と言えるほどに揃いを成すこれらの宝石の計り知れない希少性を考えると、その価値は見積もることが不可能なほどである」と記している。現存するピンク・トパーズとダイヤモンドのジュエリー・セットからも、これらがロシア起源であろうという証拠がある。ジャン=フランソワ・アンドレ・デュヴァルによって制作されたパリュールで採用されている石留めの技術との共通点が見いだされるのである。これはザクセン=ヴァイマル・アイゼナハ大公妃マリア・パヴロヴナに、未亡人となった母のマリア・フョードロブナ妃から贈られたもので、現在はスウェーデンのロイヤル・コレクションの一部となっている(8)。アレクサンドル1世は、素晴らしい二つのマルチパーパスの宝石を贈ったことでも知られている。一つは1809年に若く魅力的なメイド・オブ・オナー(皇后付き女官)、ウルリカ・モレルスヴァルトに贈られたもので、ネックレスを留めるクラスプとして着用されていた(9)。もう一つは、1821年にイギリス人の貴婦人、レディー・ロンドンデリーつまりフランシス・アンに与えられたものである。アレクサンドル1世はこの女性を大変に気に入っていた。彼女はA.デュボア・ドラオネによる絵画に、1831年のウイリアム4世の戴冠式に着用した礼服のスカートにこのトパーズのジュエリーを付けた姿で描かれている(10)。これら全てには19世紀の初めの数十年間に用いられた、ロシアのジュエリーであることを示すマークが入っている。この作品でトパーズは一列のローズカット・ダイヤモンドによって留められており、デリケートな名工の技による作品となっている。
ここに見るパリュールでは、トパーズはオーヴァル、ペア・シェイプあるいはクッション・シェイプにカットされ、ゴールド及びシルバーのマウント上にオールド・カットダイヤモンドとともに、全てがオープン・セッティングで取り付けられている。このパリュールは統一された素材と様式を持ち、一つのティアラ、一本のネックレス、一対のブレスレット、ブレスト・ジュエルとイヤリングから成る。互いに無関係なジュエリーをコーディネートして着飾ることの面倒さから解放され、セット・ジュエリーを身に着けることにより、頭部、首筋、ボディスそして手首の全てが放つそれぞれの光が豪華に引き立て合うという効果を生む。こうしたパリュールはナポレオンが自らの帝国のイメージと関連付けたがっていた壮麗なイメージに、まさに形を与えるものであった。そうした作品の中には、1811年にフランソワ・ルニョー・ニトによって皇后マリー・ルイーズのために制作されたピンク・トパーズ(ブラジル産)とダイヤモンドによるものがあった。
ティアラはダイヤモンドによる葉を台座とし、基底部のスワッグ(花綱)が交互に配されたシングルとダブルのコレットセットされたダイヤモンドの間に吊り下げられている。その上にピンク・トパーズとダイヤモンドのクラスター(計7セット)と両側のアカンサスの葉模様が支えている。上部にはより大きなグラデュエートしたピンク・トパーズとダイヤモンドのクラスター(計7セット)が、一対のダイヤモンドによるアカンサスの葉のモチーフにより下部から支えられている。これらと交互に配されているのがやや小さめのピンク・トパーズとダイヤモンドのクラスター(計8セット)である。ナポレオン様式から着想を得て、このティアラは頭部に視線を導き着用者により大きな背丈と威厳を与える。だからこそ古代ローマの皇后たちはティアラを着用していたのである。数多くのダイヤモンドにより非常に豊潤な効果を醸しているが、ジョン・モウの『ダイヤモンドと貴石に関する論文』(1823年)は、この様子を「宮廷の晩餐での、王冠から放たれるダイヤモンドの光や神々しい花輪のような髪飾りそのものが、周囲の人間に対して君主であることを宣言している」と記述している。彼の説明によれば、これはダイヤモンドに「純粋な太陽光を吸収し、その光を減ずることも弱めることなく反射させることができる性質があるため」だという。
ネックレスは8セットの楕円形のピンク・トパーズとダイヤモンドのクラスター、そしてその間のダイヤモンドの鞘に挟まれた小さめのピンク・トパーズとダイヤモンドのクラスターにより構成されている。その内、6つの大きなクラスターからはダイヤモンドに囲まれたドロップ・シェイプのピンク・トパーズが付いており、中心の7つ目のクラスターからはダイヤモンドの葉模様に繋がったスクエア・シェイプのピンク・トパーズが付いている。間にある小さなクラスターそれぞれには、ダイヤモンドのキャップの付いたピンク・トパーズが付いている。後ろ部分の8番目のクラスターには、装着するためのクラスプ金具が隠れている。ダイヤモンドの輝きと色彩に彩られたこのような重要なネックレスは、宮廷で流行していた胸元の大きくひらいたガウンに合わせて効果的に誇示されたものである。
ブレスレット: それぞれのバンドはコレットセットされた小さなダイヤモンドのグループによる葉のモチーフ9つと、交互に配されたピンク・トパーズのペア6つから成る。バンドの中心には楕円のピンク・トパーズとダイヤモンドのクラスターが配され、端部分のやや小さなクラスターにはクラスプが隠れている。動きながら表情を変えるダイヤモンドから放たれる無数の反射が手もとを彩る。宝石が散りばめられたしなやかなブレスレットは、常に人気があり、ヨーロッパでは中世から様々なデザインで着用されてきた。
イヤリング: それぞれのイヤリングはダイヤモンドによる二重の縁取りに囲まれた楕円形のミックス・カットのトパーズから成る。ここに、通常はセヴィニエ・ブローチに取り付けられている、取り外し可能なペア・シェイプのトパーズとダイヤモンドのクラスター、および、その上に取り付けられた葉のモチーフの上部飾りを取り付けることが可能である。ペンダント付きで着用するか、あるいは上部のクラスターのみで着用するかは、その時代の髪型の流行次第で決まる。髪を高く結い上げていた時代にはペンダントによって全体のバランスが保たれていたが、1840年代になり頭頂部が平らになり髪が耳の上にかかるようになると、シングル・クラスターのイヤリングでさえ見られなくなってゆく。
セヴィニエ: 長方形のピンク・トパーズと、それを取り巻く5枚の花弁を持つ花をモチーフにしたダイヤモンドによる飾り、そこから下がるダイヤモンドに縁どられた三本の形状と大きさの異なるピンク・トパーズのペンダントから成る。外側の二つのペンダントは取り外し可能である。ロマン主義文学、特にウォルター・スコット卿の作品はジュエリーをはじめとする全ての装飾美術に影響を与えた。セヴィニエとは、17世紀に書簡を多く残したことで知られるマダム・ド・セヴィニエに因んでいる。彼女はゴールドとダイヤモンドによるノット(結び目)をモチーフにしたブローチを、胸の上部、首の中心に付けている姿が描かれている。
このパリュールは、19世紀全体を通じて偉大な名士たちが出席する数々の行事を目撃してきた。贅を好んだ歴代ヴュルテンベルク公の思い出や彼らの洗練された趣味を思い起こさせる。1918年に王政が廃止されると、輝かしい君主制支配の証しとして存在するのみとなった。こうして君主制の栄光とこのパリュールを身に付けた女性達は夢と消えたが、美しい宝石とそのセッティングはこうして残り、今後も続く長い歴史の新たな局面に入っても、人々の目に美しく映ってゆく。