フォサン、ジャン・バティスト【ジュエラー/メゾン】
Fossin, Jean Baptist
パリのジュエラーの息子として生まれたジャン・バティスト・フォサン(1786-1848)は、父親の許で修行期間を修める。一人前となった後ニトのメゾンで働くが、やがてその工房を仕切るチーフとなり、ナポレオンの宮廷からの数多くの用命の製作に参加した。1815年には、フランソワ・ルニョ・ニトの引退に際して彼のメゾンを継承する。王政復古と7月王政の時代にわたって、芸術的かつ商業的に筆頭のジュエラーとして、全ヨーロッパ的な重要性と格式、名声を維持した。シャルル10世治下の1832年には、国王とその一族の御用達ジュエラーのタイトルを賜る。優れた技術に加えて、フォサンは彫刻と絵画をサロンに出展するほどの、生まれながらの芸術的才能を具えていた。彼はスタイルの革新においても第一人者であり、18世紀のマスターであるランプルールとプジェを師として自然主義のパリュールを製作するが、特に花のテーマはデッサン家としての彼の才能が十全に発揮されたもので、見事な写実性を示している。1891年の産業博覧会では様々な花のブーケが注目されたが、最も絶賛されたのは葉や果実、葦、様々な花で構成されたガーランドで、ブレスレットやブーケに分割できるバンドーあるいはクロンヌとしても、またネックレストしても着用できるコンヴァーチブルのジュエリーであった。オルレアン王家の一族と親しかったフォサンは、第二帝政の宮廷ジュエラーのタイトルを固辞したが、彼のメゾンの名声は息子のジュール・ジャン・フランソワ(1808-1869)によって維持され、1854年にそのままジャン・プロスペル・モレルへと引き継がれた(ショーメの項参照)。