フロマン=ムーリス、フランソワ・デジレ【ジュエラー/メゾン】
Froment-Meurice, François-Désiré
パリで歴史主義ジュエリーのトレンドを先導したジュエラーとして知られるフランソワ・デジレ・フロマン=ムーリス(1802-55)は、ゴールドスミス&ジュエラーの父親フランソワ・フロマンの急逝によって母親がジュエラーのJ. P.ムーリスと再婚したことから、二重姓を名乗るに至った。1818年に義父の仕事場を離れて彫金師のアトリエで徒弟期間を送ると同時に、彫刻家の許でデッサンと彫刻の習作にも励む。この二重の徒弟就業が彼の作品の独創性と品質の高さを決定付けるものとなった。1839年にはパリで開催された芸術産業博覧会への初出展がシルバー・メダルに輝き、ジュエラーとしての地位を確定。1844年と1849年にもゴールド・メダルを獲得し、1851年にはロンドンで開催された初の万国博覧会では最高賞のカウンシル・メダルに輝く。その間、1830年代にはゴシック・リヴァイヴァルのジュエリーで、40年代初期にはルネサンスにインスピレーションを得た独創的なジュエリーを創作したことで、他のジュエラーたちの手本とされた。1839年から彼の工房に雇われ後に独立してコラボレーターとなるジュール・ヴィエズの存在も大きくものを言った。1855年の彼の死後、妻がヴィエズのサポートを受けて家業を維持するが、1859年からは息子のエミール(1837-1913)が責任者となった。父親と同じく、彼はルネサンス・リヴァイヴァル・ジュエリーを専門とし、1867年のパリ万国博覧会においてゴールド・メダルを獲得した。